仙台支店 設計部課長
市瀬 理紀
2009年入社
私が育った富山市は、以前からコンパクトシティ構想をかかげたまちづくりを進めており、私もLRTを中心とする交通行政によって街が変わっていく姿を見て育ってきました。そして新潟や福井で大きな地震や豪雨が起きたことを知って防災の大切さに目覚め、大学では土木工学を専攻しました。大学時代は金沢で過ごしましたが、富山と金沢は隣の県で規模もほぼ同じなのに、都市の特徴が違うことに興味を持ち、卒業後は都市計画や造園・交通計画を中心とした「まちづくり」に携わりたいと思うようになりました。当時私が思い描いていた未来の自分は、「行政からの相談に対して的確なアドバイスを行い、行政の意思決定に影響を与えられる建設コンサルタント」でした。
入社して3年間、東京支店で道路分野の設計業務に従事。しかしその間に東日本大震災を経験し、私も災害復興の現場で土木技術者として仕事をしたいと思うようになりました。そう思っていた時、会社の震災復興プロジェクトメンバーに選ばれたこともあり、1年間名古屋の本店で都市計画を学び、5年目から仙台支店に異動しました。以来、今日まで多くの震災復興の仕事に従事しています。私は以前からまちづくりに関わりたいと希望していましたが、震災復興と無我夢中で向き合ううちに、震災復興には河川工事や土質調査、下水道の整備、建物の建築設計など、まちづくりに関するあらゆる要素が詰まっていることに気づきました。同時に、震災復興の業務を遂行する中で、まちづくりを総括してとらえる視点を学ぶことができたと思っています。
以前、私は自分の技術力不足を痛感していました。たとえば、どれだけ私が基準に忠実な設計をしても、現場は基準書通りに進まないことが圧倒的に多いということです。こういった問題が起きた時に適切な解決策を示すのが建設コンサルタントの仕事なのに、若い頃は私の技術力不足のせいで現場の問題を解決できずに何度も悔しい思いをしました。そんな時、上司や先輩のアドバイスに何度も助けられました。特に、自らの失敗例を通して、設計の落としどころや注意すべきポイントを具体的に教えてくれた上司のアドバイスは、本当に勉強になりました。また同僚とは互いの専門分野を教え合うことで、みんなで力を合わせて業務を進めるということを学べた気がします。
忘れられないのは入社8年目、東日本大震災で被災した、宮城県東松島市の旧・野蒜駅駅舎を活用した「震災メモリアルパーク」の仕事です。最初に市の担当者と協議しながら、「単なる鎮魂の施設ではなく、訪れた人が復興への希望を感じられる施設にする」というコンセプトを決め、約1年という短期間で、視察から予算の確保、モニュメントなどの設計と施工、そしてオープンに至るまで、自治体やJRの職員、工事業者、そして私たちが一丸となり、夢中で取り組んだ仕事です。しかも開業直前まで市の担当者と展示品の見せ方を工夫するなど、最後の最後まで試行錯誤を繰り返しました。後からTVのニュースを見て知ったことですが、オープンイベントの席で、実際に被災された経験をお持ちの方から、感謝の言葉をいただいたことは今でも忘れられません。
仕事をしてきて思うのは、建設コンサルタントとは、中立的な立場で行政の事業を支える「黒子」だということです。しかしそんな黒子が、公共事業の推進に大きな影響を及ぼすことができるのです。大学時代に思い描いた「行政からの相談に対して的確なアドバイスを行い、行政の意思決定に影響を与えられる技術者」に私がなれたかどうか分かりませんが、たまに行政の先におられる住民の方々からいただく感謝の言葉に、大きなやりがいを感じます。今後、デジタル技術が発達して仕事の仕方は変わると思います。しかしだからこそ、今後も「現場でなければ経験できないこと」が重要になると思われます。
最後に、現在、私は課長に昇進し、今度は私が部下に経験や技術を教える立場となりました。「自分が若い時にどのような目線で設計をしていたか?」、「上司に助けられた経験は何か?」、「部下がどうすれば、最適解を導けるか?」ということを、常に考えています。部下には、私が感じた「現場でなければ経験できないこと」を伝授しつつ、それぞれの建設コンサルタント像を追い求めてほしいと思います。